hideの熱狂的なファンをみて思ったこと
尾崎の熱狂的なファンでした!
前回、XJAPANの映画について書きましたが、今回はhideの熱狂的ファンを見て思ったことを書きます。
尾崎豊が突然亡くなり、葬儀の様子をテレビで見たとき、私は中1でした。
当時の私からしたらファンのお兄さん達がわんわん泣いていて、インタビューで「僕の人生の歴史はこの日の前と後に分かれる」と答えている人がいて、何がそんなにすごいのか全くわかりませんでした。
その後、私は尾崎にどっぷりとはまり、尾崎に熱狂し「亡くなってから知ってよかった」と思ったほどでした。
ギタースコアを買い毎日のように練習し歌い、部屋にはポスターを張り、祖母から心配されるほど熱狂していました。
だからあのとき号泣してきたお兄さん達の気持ちはとてもわかります。
しかし、私はhideに熱狂している人達のことは理解が出来ずにいました。
尾崎ファンとhideファンとの共通点と違い
尾崎のファンはギターで尾崎の歌を歌い、追悼番組などでも15の夜、卒業、I love youなどが歌詞入りで紹介され「あの曲に勇気をもらった」「あの曲の○○というフレーズが自分のことのようで~」など、歌詞にまつわる思いがありました。
例えば尾崎が歌詞を作詞家に提供してもらったら魅力は半分以下になり、ファンは絶対に嫌がります。
しかし!
hideが亡くなったとき、ミュージシャンの死と思えないほど音楽の紹介がされませんでした。年表をなぞるような紹介はあっても尾崎ファンのような、楽曲への思いやエピソードは全くといっていいくらいありませんでした。
ファンとの交流、生い立ち、人柄がほとんどで、当然、映像に歌詞が入ることもなく、尾崎ファンだった私には悲しいにしてもなんであそこまで泣き叫ぶのかが理解ができませんでした。
そしてあるとき、XJAPANの大ファンという人に話聞いたら答えをおしえてくれました。
「hideという存在そのものが支えなんだよ」
なんとなくその言葉で理解ができました。
自分の家族であり、恋人であり、自尊心であり、生きる理由なのでしょう。
私も熱狂的なころは自分のことよりも尾崎を悪く言われた方が気分が悪かったです。これは親のことや恋人のことを悪く言われたときに似てますよね。
これがもっと行くと自分の存在より高くなります。
自分を超えてしまった存在
当時のニュースで、hideの葬儀で泣き叫ぶ若者を見て「あの子達は自分の親が亡くなってもあんな風になるの?」と不思議そうにコメントをしている大人がいました。
ほんとにそうだよなぁと私も思いました。
親が亡くなってもあそこまで泣き叫ぶことはないでしょう。
もっと言えば自分が明日死ぬとなってもあそこまで泣き叫ばないでしょう。
ある意味「自分を超えた存在」ですよね。
悪く言えば宗教のようですが、若い頃に何かの支えが必要でその支えがあまりに太くなってしまい、何かの拍子で折れたときに立ち直れなくなるのはとてもよくわかります。
今の時代と違い当時はスマホもなく、少ない情報、交流の中で生活をしていましたから、今よりも1つのものに時間を費やし続けられる、熱狂しやすい環境にありました。
その意味では今後「自分を越えた存在」になるまでの熱狂的なファンを持つアーティストはなかなかでてこないでしょう。